ブロブ

このブログはこれ単体で完結するものではなく私の人生と照らし合わせてはじめて楽しいものであり非常に個人的と言えます。

読み下し文

赤灯えれじい読みました 4巻まで。
内容はいわゆる恋愛もので、ヘタレな男がヤンキーの女と付き合う男の夢物語系の、「え、そろそろおじさんの年齢なのにそれ読むんですか???」って言われてしょうがないタイプの。
ヘタレだけど男気を見せるタイプの主人公です。彼女のために喧嘩したり声を上げたりして、かっこいいわけではないけれど頑張っている。でもヘタレだからダサい、その辺に共感できる。
我々キモオタに言えるところの共感というのは「がんばったら自分でも出来そう」って意味になります。
環境が悪いだけで自分が輝ける場所がどこかにあると信じているから環境が整っている人を妬んだりしない。むしろ応援できる。
コレがなければ、アレがあれば、と思うことは日々多いですが、結局それって共感でいうところの「がんばったら」の部分に当たるので、底の部分で考えが食い違っているんですよね。がんばってがんばったらがんばるとき。
何をしていても自分の勝手ですが、結果を受け入れるだけの度量がないから環境のせいにします。もっと周りがこうだったら、親がこうだったら、自分がこうだったら。配られたカードで(以下略

何も言っていない文章になってきたので閑話休題

おすすめが苦手です。人は人、自分は自分という意識がまだないので。自分がもし饒舌で、どれだけイントロデュースが上手くても出来ることは入り口まで連れて行くことだけだと思っています。
人間(大きい主語)は面白い面白くないを感性で測るので可視化できない「面白さ」という数量があるっていう考え自体が間違っていると考えています今。
友達がやってるから面白い、理解できる、共感できる、ニンがわかっているからこそのオモシロって自分を投影しやすいからだと気づきました。
結局人間が好きで、その中で自分が好きな人が好きな理由って自分が好きじゃないと成り立たないんですよ。成り立たないんでしょうか?
自分は自分があまり好きではないです。でも「自分は自分があまり好きではないです。」って言えるのは自分に興味ある奴からしかでてこない言葉だと思いませんか??????????

あーーーーーもうやってらんねーーーーー!!!!!!!!!!
とりあえずこのへんで チャオ